政治や社会に関心のない人たちは間接的に「いじめ」に加担しているのではないか。
政治や社会に関心を持たない人間は「いじめ」に加担しているのと同じではないか。
と感じている。
私は営業職についていることもあり他人と話す機会が多い。
そのためある程度当たり障りのない話題で場をつなぐことが求められる。
日常の友達関係やご近所関係でもそうであろう。
そんな時、避けるべき話題として筆頭に挙げられるのが政治の話題ではないだろうか。
特定の政党への批判、政治家への批判のみならず、直近の国の政策への批判も基本的には慎むべきだという空気がある。
ただ、完全に触れてはいけないわけではない。例えば国の政策によってこれからどうなっていくからどう対処しようとかそういった言論は許容される。
許容されないのは、国が行う意思決定はおかしい、声を上げるべきだという主張の類である。
要は、国が行うこと自体はもうどうしようもない。個人や企業はそれへの対処をどうするかしか考えてはいけない。そんな空気が支配しているのである。
マスコミでもそうではないだろうか。
消費税の増税が決まったり、社会保険料の負担が増加すると、そのことへの批判はそれほど主張されない。個人でできる節約術などばかりが取り上げられる。
私はこうした風潮が本当に嫌なのである。
どうして政治に声を上げることを嫌うのだろうか。むしろ活発に普段から議論しない人間がいざ選挙になった時まともに物を考えて投票できるのか。
また、社会に声を上げてはいけないのなら、一体誰が弱者に目を向けてくれるというのだろうか。
個人でできる対処くらい誰だってそれなりにやるだろう。
でも、苦しくてもなんとか対処できているからといって国のおかしさを放置していたら
いずれ耐えられなくなるまで追い詰められるのではないか。
誰が最後まで生き残れるか競争をしている自覚はあるのだろうか。
日本の経済は30年以上のデフレによって徹底的に希望が失われた。
国民の所得は減る一方。
このような現実を前にして、自分が今生きていけているから大丈夫と国に対して批判したり要望を出すことを忌避することは許されないのではないか。
非常に残酷な事実を言いたい。
デフレだったということは、もともと資産を持っていた人々はその資産の価値は何もしなくても日に日に上昇していった。
一方で資産を持たない、もしくは借金を持った人間はその重さが増していったということ。
デフレとはお金の価値がものに対して高くなるわけだから当然である。
もともと恵まれていた人間は一層恵まれた。これが30年以上の日本で起きた現実。
お金を持った人は当然発言力を持つ。
政治家と繋がったりマスコミと繋がったりして言論を支配することができる。
自分達に有利な言論で世の中を埋め尽くそうとするのは当たり前。
資産価値が目減するインフレになると、格差は縮小して自分達の影響力は弱くなる。
だから、経団連も経済同友会も、日本を不景気にしてデフレに据え置こうとする消費税の増税ばかり主張するわけである。
一方で法人税は減税されてきた。なんのため?自分とその子孫だけが安定して権力を保つため意外にない。
つまり日本の政治も言論も権力を持っている人間に誘導されてきた。
そして、自分は関係ないと思っている一般人も政治への批判を言わせない空気を作ることでそれに加担していると言えるのだ。
自分は生活できているから無関心でいい。そんな風に思っている陰で弱者はどんどん切り捨てられる。
学校や職場で起きるいじめと同じではないか。
自分は安全圏にいるから彼らのために社会を変えようとしないのは、いじめの片棒を担いでいることに等しい。
社会は人間が集まって作る。それは、集まって一定のルールのもとで協力してみんなで豊かになるためのはず。
ならそのシステムが誰かを切り捨て、特定の者のみを富ませるように動いているなら
それに疑問を提起するのが社会人ではないか。
他人のことを思いやることのできる社会を、庶民が団結することで取り戻したい。