政治経済 メノツケドコロ(積極財政)

一介のサラリーマンが、世相、政治、社会への考えを綴ってます。

労働なんて茶番に過ぎない。

日本人はなぜ労働を神聖視してしまうのだろうか。

皆さんは違和感を感じたことはないだろうか。

 

社会人なら働いて当たり前。

朝はきっかり定時に出勤し、夜は定時を過ぎてでも業務をこなしてから帰宅するのが当たり前。

仲良くもない取引先との楽しくもない飲み会を率先して企画して当たり前。

休日も業務のために勉強して当たり前。

 

挙げ出すとキリがないが、労働者としてすべきことが多すぎるのである。

楽しくもないことのはずなのに、皆が自分を犠牲にしている。

でも、これが正しい姿だろうか。

 

一労働者が自分を犠牲にして働いたところで会社の業績が多少上がって、経営者の資産は増えるだろう。だがその労働者の賃金は対して増えやしない。

経営者は増えた利潤でさらに新規事業を起こしたり資産運用をしたりして、労働者とは比べ物にならない速度で資産を増やしていく。

方や労働者の方はどうだろうか。自分の心身の健康を犠牲にして少しばかりの恩給をもらったところでまた同じように次の年も心身を捧げていく。

体を壊せばなけなしの貯金を取り崩して細々と食い繋いでいくことになる。

会社は法で定められた程度の見舞金を出して終わりである。

 

このように、経営者と労働者は全く立場が違うのだ。

 

ここで、皆さんに思い出して欲しいことがある。

現代は資本主義の時代であるということである。

資本を持っている人間がより資本を増やすことができる。そんな世界である。

 

経営者が持っているのは、もちろんお金である。

彼らはそれを資本として使い運用している。

 

では労働者はどうだろうか。

自分の体である。

 

たった一つしかない自分の体が資本なのである。

 

であれば、その体を労働によって壊してしまうというのが非常に愚かしいことだと

わかるのではないだろうか。

 

我々労働者は、いかに労働を少なくし自分の体という資本を長持ちさせるかが勝負なのだ。

無理をして一瞬給料が増えても、長続きはできない。

それよりは、細く長く(経営者を)騙し騙し働いてほどほどに給料をもらうべきだ。

 

特に今のように、会社が豊かな生活を約束してくれない時代はそうだ。

 

だからこそ、労働というものを重く考えず、茶番に付き合ってやるかという心を持つことが望ましい。

 

生まれながらに恵まれた人間はいる。そんな人間と資産では何倍も差がついていたとしても

寿命はそこまでの差はない。体は平等なのだ。

唯一、平等に持っている自分の体を大切にしていきたい。