政治経済 メノツケドコロ(積極財政)

一介のサラリーマンが、世相、政治、社会への考えを綴ってます。

皆、宗教に染まっていると言えるのではないか。

私はサラリーマンとして働いているので、上司と世間話をすることがよくある。

基本的には話を合わせることができ、迷いなく相槌も打てるのだがたまに同意しかねる時があり心の中でモヤモヤしたりする。

 

最近ではこんな言葉があった。

「宗教にハマる人間って理解ができない。神を信じるなんてあり得ない。」と。

 

キリスト教イスラム教も含め、多くの宗教では目に見えず、信仰の世界にしか存在しない(かもしれない)ものを大真面目に議論し日々の生活に溶け込ませている。

私も一時期、宗教などを信じることを否定はしないまでも、あまり積極的に意味を見出せなかった。

私自身は何か信仰していることはないと思っていた。

 

しかし、社会人となり色々な人と話し、色々な本を読み経験を積むと考えが変わってきた。

 

私も含め多くの人間はいかに多くの信仰を持って生きているのだろうかと思うようになったのだ。

 

例えば、日本では勤労の美徳というものが信じられている。

懸命に働けば報われて、豊かに暮らすことができると多くの人が信じているはずだ。

だが、考えてみたらそれに何の根拠もないのではなかろうか。

今、国民の税などの負担の重さ、いわゆる国民負担率は48%にまでなっている。

普通に労働をして得られる所得は、どんどん取り上げられていってしまうのだ。

 

だから、労働者として豊かになるというのは非常に難しいことだと言わざるを得ない。

 

反対に、もともと資産を持っていた人間はどうだろうか。

金融所得には20%程度しか税金はかからないため、資産家の家を継げば何もしなくても圧倒的に優位に稼いでいくことができる。

また、親の会社を継ぐなど人的資本を受け継ぐことも非常に大きな差となる。

所得税の累進性は下げられてきたので、所得が多くても一昔前ほどには税金を取られず資産が積み上がっていくのだ。

 

資産を持った人間であれば教育にもお金を使えるため、スタートラインが違う。

 

懸命に働いたからといって、豊かになれるというのは何の根拠もない妄想と同じだと言える。

 

他には、社会的属性ごとに標準とされる生活スタイルも信仰と同じではないだろうか。

 

社会人になったら実家を出ていなければおかしい。とか。

ローンで家を買って子供を持って、やっと一人前。とか。

 

何となくみんな信じているが、何の根拠もないものなんて非常に多いと思う。

 

こう考えてみると、宗教を信じることが特別不合理で理解し難いようには私は思えないのである。

 

 

さらに言えば、人間が何かを信じることにはメリットがあると思っている。

 

一つ目には、心の支えになることだ。

目の前の現実は辛いことが多い。

自分の選択に自信を持つことも難しい。生きる意味すら見出せず苦しくなることもあるだろう。

そんな時に、そうした自分の境遇や自分のなすべきことを示してくれたり、人生に対して意味を与えてくれるような信仰を持っていたら精神衛生上とても良いと思う。

 

二つ目には、社会の秩序を保てることだ。

多くの国民が共通の「常識」を信じることで、行動が一定の範囲に収まる。

何のルールもない、どこで何が起こるかわからないようでは秩序など期待できない。

根拠はなくても行動に一定の枠をはめることができる点で、信仰というものは大きな役割を果たすだろう。

 

3つ目には迷いをなくすことができることだ。

日々生活していると、一つの事柄に対しても人によりいく通りもの対処の仕方、判断の仕方があることを知るだろう。

書店に行っても、同じ事象に対して書かれたものでも正反対の結論に至るものなんていくらでもある。

何かを選ぶにあたっては、それが後の人生で大きな影響を及ぼすものであればあるほど正解が見つからないことであることが多い。

そんな時、自分が何か信じる判断の基準があればどうだろうか。

選びうる選択肢のうち、少なくともいくつかはその基準を使い切り捨てることはできるはずである。

この時、信仰は選択肢を篩にかけてくれている。

選択を助け、そして信念に沿う選択をした自分を肯定してくれるのである。

 

以上のように考えると、私は宗教を信じている人が理解できないとはとても思えない。

むしろ宗教かどうかに関わらず、自分の中で頼れる信仰というものを持ちたいとさえ思う。