防衛費増額。責任を負うのは庶民だけ。地獄のような日本社会。
皆さんこんにちは。
最悪のDV政府のもと、庶民同士頑張って生き抜きましょう。
本日の話題は
「防衛費の増額は、今を生きる我々が責任を持つべきなので増税する!」
という岸田首相の発言です。
岸田首相は、防衛費の増額に伴って増税するという考えを微塵も改めるつもりはないようです。
岸田文雄首相は13日の自民党役員会で防衛費増額を巡り「防衛力の抜本強化は安全保障政策の大転換で、時代を画するものだ。責任ある財源を考えるべきで、今を生きる国民が自らの責任としてその重みを背負って対応すべきものだ」と述べ、一部を増税で賄う考えを改めて示した。
確かに現在の日本の防衛環境は転換期にあると思います。
ウクライナ戦争が勃発したことによって、今までの常識が崩れました。
それは、今の時代でも大国が戦争を起こすことがあるということ。
そして、アメリカは核を持っている国相手には正面から戦えないということ。
この二つの事実を、日本人全員が認識せざるを得なくなったのです。
なればこそ、防衛費の増額はやむをえない。私もそう考えます。(現在の政府の考える予算の使い道でいいとは思ってはいません。)
しかし、本当に責任を持った支出なら尚更税金なんていう不安定なお金を回すのはおかしいのではないでしょうか。
税金というのは色々な役割がありますが、主要な一つに景気の調整の機能があります。
好景気で消費が活発、所得も増えているならば、消費税や所得税、法人税も勝手に負担が増える。だからこそ景気の過熱を防いでくれる。
不景気ならその反対です。
ということは、防衛費を増税で賄うというのは、景気という不安定なものに防衛という命そのものと言える大事なものを左右されてしまうということです。
今年はなんとか賄えたけど、来年は防衛費足りないですなんて馬鹿げた話があり得ますか。
他国は日本の景気など気にして侵攻の日付決めてくれないですよ。
それに、増税なんてしてしまったら防衛する前に国民が干上がりますよ。
ただでさえ庶民は30年の不景気に、物価の上昇で苦しんでいるのに見えてないんですか。
今国内の土地が外国資本に次々買われていってます。
それも、国民の生活が苦しいのに政府が対策を打ってこなかったことで、やむをえず土地を手放さざるを得なくなったわけです。
防衛費増額と増税を交換条件にするのは、結局国を守ることに繋がらない愚かな選択です。
だからこそ、防衛費には確実に国債発行で行うという明言が必要なのです。
如何に防衛費をめぐる議論が間違っているかを述べましたが、それ以上に岸田氏の発言が許せません。
今を生きる国民が自らの責任としてその重みを背負って対応すべき
自らの暮らしを守り、国を守るという国民一人一人の主体的な意識こそが何より大切
一体どの立場でものを言っているんですか。
今まで30年間不景気を放置し、国民生活を苦しめ続けた責任を政治家は取りましたか?
仮に戦争が起こったとして、政治家が前線に立ってくれますか?
国民に対する責任は果たさず、でも国民には責任という負担を押し付ける。
そもそも、
国を守る主体的な意識なんて庶民は持てないですよ。
自らの暮らしを守ることに精一杯。経済的な理由で結婚も子育てもままならない人が多くいるこの国で、政府が責任を持って国を守るとなぜ言えないんですか。
どうして、さらに庶民に責任を負わせるんですか。
政府による国債発行で賄う。これ以外の発言をする政治家は全くもって売国奴としか言いようがない。
庶民が団結し、このような政治にNOを突きつける!
皆さん一人一人の力が重要です。
静岡県保育士の事件は、政府のこれまでの在り方を見直すきっかけとすべきだ!
本日取り上げますのは、
静岡県裾野市にて、保育園で働いていた保育士の女性三名が、園児への暴行容疑で逮捕された事件です。
加害者らは、園児への暴行や暴言、宙吊りにするなどの虐待を繰り返していたとのことです。
こうした事件を受け、SNSでは加害者を激しく非難する声が相次いでいます。
子供が嫌いなのであればなぜこの仕事についたのか、仕事にしている以上待遇に文句を言うな選んだのは自分だろ。なんて恐ろしい人間なんだ 等々。
私も、この事件の加害者を擁護するつもりは全くなく、罪を犯したのであればもちろん然るべき処置を受けるべきであろうと考えています。
ただこの事件、加害者が異常だったで済ませていいのでしょうか。
私は、これをきっかけに今まで日本がいかに労働者を大切にしてこなかったかを見直していくべきなんじゃないかと思うのです。
加藤厚生労働大臣は、この事件を受け、全国の自治体や保育現場に注意喚起と実態調査を行うと発表しました。
もちろんこの措置は必要でしょう。しかし、国も自らを顧みる必要があるはずです。
ご存知の通り、保育士の労働条件は度々問題に上がるほどにきついものです。
厚生労働省のデータによりますと、
全職種での平均賃金は500万円となっているのに対し、保育士の場合は360万円程度と大きく
平均よりも賃金が低いと言うことがわかります。
それに加えて、こちらのグラフをご覧ください。
こちらは、平成30年に東京都が、保育士の離職防止や就職支援に役立てるために
保育士の有資格者にさまざまな調査を行った中でのものです。
現在の職場への改善希望事項として
給与、賞与等の改善が 65.7%
職員数の増員 50.1%
ジム、雑務の軽減 49%
未消化休暇の改善 36.5%
勤務シフトの改善 36.5%
トップから五番目までの事項の全てが、労働環境、それも労働者にもっとお金を
かけて改善する必要のあることが並んでいるのです。
事務の軽減、休暇の改善、シフトの改善、どれも企業が人材採用に力を入れ、
保育士を増やしたり定着させるために人件費にお金を使わなければ改善の難しい問題なのです。
では国は、保育園運営会社側が人件費をしっかり使えるように支援しているのでしょうか。
実は、全く逆で 従業員の賃金が安く据え置かれることを容認するような政策ばかり行なってきていたのです。
バブル崩壊後の不況、女性の社会進出も増えた頃、共働き世帯の増加により
待機児童が社会問題となりました。
その為2000年に、政府は営利企業などにも認可保育園の設置を認めることとし
解決を図ったのです。それ以前には、認可保育園は自治体や社会福祉法人にしか設置が認められていませんでした。
その際に、政府から保育園に渡す委託費の使い道の規制緩和を行なったのです。
説明しますと、
保育園というのは、大きく二つの収入源があります。
一つは保育料。これは利用者から直接いただくのではなく、受け入れた園児の人数によって地方自治体から受け取るというものです。単価も決まっているので園の裁量は少ないと言えます。
もう一つは委託費です。政府が公定価格として、保育園を運営するにあたって必要になると定めた金額を園児の数で配分しているものです。当然公定価格なので自由に決めることはできません
こちらの委託費、民間企業の参入を促すまでは使い道に制限がかけられており、
人件費として受け取る分は人件費に回すことがきまられていました。
しかしそれでは民間企業が自分の手元にある資金を自由に使えず、参入を促せないと考え、委託費を弾力運用できるようにしたのです。
人件費や事業費、管理費相互の流用や、運営する他の保育園や保育事業に流用することも認められました。
これはつまり、人件費に本来必ずいくはずだったお金が、必ずしもそうではなくなったということなわけです。
さらにその後も、流用できる金額をより多額まで認める改正や、介護施設への委託費の流用を認めるなど弾力運用の名目で、人件費に必ずしも資金を割り振らなくて良い状況がどんどん作られていきました。
第二次安倍政権の元では、株主配当に回すことまで認められました。
民間の参入障壁をドリルで打ち壊す、自民党政権の面目躍如といったところでしょう。
しかし結果として、保育の現場で働く人々の賃金はどうなってしまったでしょうか。
もともと、委託費については、
その金額の8割を人件費に掛かると考えて支給していました。
それが、規制の緩和により8割そのまま人件費に使わなくても良いということになったと。
こちらの記事によりますと、保育園を運営する株式会社の場合、人件費は全体の5割程度まで
削られてしまっているとのことです。8割だったものが5割しか支給されなくなる。
営利企業が参入するなら、削れるところから削って利益を出すわけですから、
断じて安易な規制の緩和などするべきではなかったのです。
実際、低賃金なだけでなく非正規雇用の保育士が4割になるなど身分も不安定になっている。
労働環境の改善などできるわけがない。
国が制度設計を間違えているわけです。
本当であれば国は、委託費の金額を潤沢にあげて、その分人件費や設備投資に使えるように
制限をかけるべきだったのです。
労働者の待遇、職場環境の改善のためにお金と制度を運用するべきだった。
それなのに企業経営者に反発されるのが怖いから、働く人たちを守るという責任を放棄したわけです。
自民党政府に言いたい。
お前たちは、労働者を大切にしていない。むしろ疲弊している労働者にさらに冷や水を浴びせるようなことばかりしている。
なのに、一旦事件が起こったら、それまでの自分達の不作為による影響を大々的に国民の前で反省することもせず、現場への圧力を強めるのか。
虐待は悪だ。
それは当然だ。
だが国家権力が労働者を虐待するのは、お咎めなしなのか。そんな国でいいのか。
国民の皆さんには
今回の加害者を非難するだけでなく、社会がどう変わるべきか。どうあるべきか。
そんなことを考えるきっかけにしていただきたい。
庶民の手で、庶民を大切にできる政治を、少しずつ取り戻していきましょう!
今回は、以下のリンクの記事などを参考にし記載いたしました。
ありがとうございました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d1a5f731b1e0c3274c3f4d7997a159fd450c5eec
https://www.g-asuka.co.jp/job-info/column/faq-haken-009.html
https://toyokeizai.net/articles/-/601800?page=3
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/kodomo/shikaku/30hoikushichousa.files/430chosakekkashosai.pdf
https://toyokeizai.net/articles/-/356874?page=3
もっとわがままに声をあげていこう!!
もっとわがままに声をあげていきませんか。
みんなもっと社会に遠慮なく不満をぶつけていきませんか。
要望を届けませんか。
政治に声を上げるって、特別なことじゃないと思うんです。
私が発言しても、もっと詳しい人に複雑な専門知識で反論されたら言い返せない
とか
社会に不満を言うと、甘えていると思われる
とか
自分の知識不足で間違ったことを言ってるんじゃないか
とか。
そんな風に自分の中で考えてしまって、ブレーキを掛けてしまってないですか。
私は思います。もっとみんな気軽に、意見をぶつけ合っていいんじゃないかって。
むしろそれが健全な政治なんじゃないかって思うんです。
民主主義というのは、一人一人の意見を大切にしてできるだけ多くの国民の合意で社会を動かしていくという考え方ですよね。
日本においては代議制民主主義として、制度化されています。
要は、あなたの選んだ政治家があなたの代わりにあなたの意見を国会に届けますと言うものです。
この時、選ばれた政治家は、票をくれた人々の意見を代表すると言うことです。
大企業の支援を受けた政治家は大企業の意見を代表する。
医師会の支援を受けた政治家は医師会の意見を代表する。
そんな構造なわけです。
では、私も含めて多くの一般庶民が気軽に意見を言わなくなったらどうなるでしょうか。
一般庶民が政治に関心を失い、何となくテレビで有名な政党や政治家に票を投ずるとどうなるでしょうか。
庶民の方を見た政治が行われなくなるんです。
何故か。
基本的に、テレビや新聞のスポンサーは大企業です。
お客様である大企業に都合の悪い記事は書かなかったり、やんわりと書いたりする構造になっているわけです。
つまり、テレビや新聞を見ているだけでは、庶民ではなく大企業に都合のいいであろう人間や考え方に好感を抱きやすいのです。
例えば消費税。
消費税はどんどん上がって、所得も下がり一億総中流と言われた時代はもうとっくの昔となった。それでも法人税だけはほぼ同じ金額減税されてきた。
例えば非正規雇用。
雇用の流動化で賃金が上がるようになると宣伝して、
今では非正規雇用が労働者の4割。そして労働者の所得は下がる一方。
なのに株主配当だけはどんどん増額されていく。
こんな風に、大企業や富裕層に都合のいい政策ばかりが進むことになったわけです。
消費税に関して、テレビや新聞で真っ向から反対してくれてましたか。
雇用の流動化を進めていくことを規制緩和だとか持て囃してませんでしたか。
庶民の立場で声をどんどんあげていかないと、庶民は置いてけぼりになるんです。
こんなことを言ったら、誰か他の人に迷惑じゃないかなって思わされてないですか。
例えば、
反論されていいんです。
それぞれがそれぞれの立場で、苦しいことには拒絶を示していくことで
じゃあどうバランスを取ろうかって話になるんです。
反論されてシュンとなってしまったら、誰もあなたに遠慮なんてしてくれなくなります。
いいんです。
もっとわがままに要望を言っても。
子育て支援を拡充してほしい。
消費税をなくしてほしい。
労働時間を短くしてほしい。
社会保険料が重すぎる。
あなたの意見だからこそ、あなたの権利を守れるのです。
思ったまま声を上げましょう。
あなたの意見を伝えてくれるのはあなたしかいないのだから。
意地でも庶民をいじめたい経営者達。守銭奴に成り果てた彼らに上流にいる資格はない。
本日はこちらのニュースを取り上げたいと思います。
防衛費拡充へ調整本格化 与党、法人・所得増税を視野
政府・与党は、有識者会議の報告書を踏まえ、防衛費の規模や財源の調整を本格化させる。
与党内では基幹税目である法人税と所得税に加え、たばこ税、金融所得課税の計4税目の増税論が浮上している。
報告書では、防衛費拡充の財源について「幅広い税目による負担が必要だ」と明記。原案で財源の候補として盛り込んだ「法人税」の文言は経済界の反発が強く削除した。
一部抜粋して読み上げましたが、
要は政府も、経済界も、庶民の懐からはいくらでも税金を取り上げる。
何をしても黙って自殺するだけだろと思っているということです。
何か必要なことがあれば増税増税。総理大臣は誰がやっても政策は変わりません。
増税する。以上終わりです。
実は今回のニュースに至るには一つの流れがありました。
それは、
国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議 なる連中が22日に
日本の安全保障戦略の転換とそれに伴う財源を話し合った結果として報告書を岸田文雄氏に手渡したことです。
この会議、
ネット上にメンバーが公開されていますが、おかしいと思わないでしょうか。
大学関係者やシンクタンク系の方々がいらっしゃるのはいいでしょう。
でもなぜ日本経済新聞の顧問などのただの1株式会社の人間が参加しているのでしょうか。
しかも内輪で勝手に話し合うならともかく、首相に直接報告できるような立場なわけです。
政治ってそういうものでしたっけ。
私企業はあくまで私企業。自分たちの利益を最大化するために動くべきですし、それはもう非難されるべきものでもないわけです。
でも政治はそうじゃない。広く一般の国民のために奉仕するものなわけですよね。
有識者なる名目で、私服を肥やす人間を政策決定に参加させていいことありましたか。
竹中平蔵が有識者で、日本国民は非正規雇用という使い捨て労働者にされてしまったじゃないですか。
さて、そうした心配をしていたら案の定企業に忖度し始めました。
記事によれば、報告書提出前の案の段階では、財源の候補として所得税だけでなく法人税も盛り込んでいたとのこと。
しかし後から経済界が強く反発したことでその文言は削除されたそうです。
会議に参加した人間の中に経済界の人間を入れていれば、当然別のお仲間の企業を経由してでも都合の悪い法人税増税を無くそうとしますよね。
当たり前の流れです。
もちろん、日本円建ての国債を発行するならば法人税も所得税も、もちろん消費税も増やす必要などない。
日本銀行というシステムがある限りは日本円について財源を気にする必要はないわけです。
ただ、そんな難しい話を抜きにしても、防衛という国民の命がかかっている事柄で
紙幣が足りないというなら刷ればいい。
この事実に気がついていないにしても、経済界の横暴はここに極まってきていると言えるのではないでしょうか。
法人税がずっと減らされてきた中で、消費税だけは上げられていった。
法人税が高いと国際競争力がどうのこうのと甘えた言葉で国民を騙してきたわけです。
その上、売り上げが上がっても人件費には回さずひたすら株主への配当金を増やし続ける。
金が余れば自社株を購入して従業員を差し置いて株主に媚びる。
もしくは、ストックオプションという形で経営陣の懐だけ肥やしていく。
株価が上がったら経営者と株主だけが果実を得て、労働者に回す気など全くなかったことがもう判明しているわけです。
ノブレスオブリージュと言って、社会的地位のあるものはそれだけの社会的責任を果たすべきだ。
そういう考えが昔にはあった。
でも今の企業経営者たちにそんな考えは微塵もなく、あるのは自分の資産残高を、
死ぬまで使いきれないのにそれでも増やすという浅ましさしかないわけです。
さて、ここまで批判ばかり述べてきましたが一つのヒントもここにあると思うのです。
経済界の反発で政府が遠慮をした。
ならば、一般庶民も個人の集合体ではなく団結した個人なのだと認識させればいいということです。
生活がきついなら遠慮なく財務省や政府に要求する。
政権与党を無職に追い込む。
日々の政治の動きをしっかり見て、必要なら抗議署名も行う。
小さい個人ではなく、同じ国民だという同胞意識を持って、豊かな中間層、一億総中流の
日本を取り戻していきましょう。
気をつけないと進んで搾取されようとしてしまう。
私は不動産会社で働いている。
ただ、一般的に想像される不動産業者と違い、不動産を買取って手直しして再売却する
方法で利鞘を稼ぐ商売なので一般のお客様ではなく不動産会社を相手に営業している。
その関係で基本的に土日が休みの仕事なのである。
だが、本日会社での話し合いの中で、もっと一般のお客様と接点を持つことで売上を稼ぐようにポータルサイト(スーモなど)に広告を出すことを提案された。
まだ未確定ではあるが、私はそのことで意見を求められた時に「土日に案内が入ったりすると生活リズムが崩れるのでその点が不安だ」と率直に伝えた。一般の方が家を見に行けるのなんて土日しかないという家庭が一般的だろう。
正直このような場で自分の私生活の時間を優先するような発言をすべきか迷ったが、そうした意見を頭から否定するような職場でもないので言うことが出来た。
ある程度水を差しておかないといけない事情もある。弊社は有給の取得はほぼ誰もしていない。加えて休日の出勤があっても代休が取れるような環境ではないからだ。
上司の方からは案の定快くは思っていないと言う返事が来た。要点を挙げると。
・このご時世、休日に全く対応しないで済むような仕事は、役所とかでもない限りほとんどないだろう。融通利かせないといけないのでは。
・不動産は一回に扱う金額が大きいから、この業界に携わる以上完全に割り切ることはできない。チャンスを逃してしまうことになる。
・上司自身も休日に仕事をすることは嫌だが、実際にするときはちょくちょくある。やらなきゃ仕方ないのだ。
概ねこうした意見であった。
私は上司に関しては全く文句はなく、むしろ多くの会社よりも理解のある方だと思っている。
だから、私自身が上司の意見に賛同できない自分を残念に思っているくらいである。
それでもどうしても納得はできないのである。
このご時世には仕方ないと言う点について。
確かに現実問題として労働者の権利がしっかりと認められている会社なんてほとんどないであろう。
有給はしっかり全部使えて、サービス残業もなく、労働時間や休日数なども完全に法律を遵守している企業などほとんど聞かない。
でも、だからといってその現状に納得してはいけないと思うのだ。
結局社会というのは人間が作るものなので、その構成員である私たち一人一人が自分たちの権利を認識し主張することでしか変わらない。
その場を穏便にやり過ごせるからといって唯々諾々と従っていてはいつまで経っても労働者は搾取される一方のはずだ。
だから、個人としてはできる限りそうした労働のあり方を避け、不可避であってもなるべく最小限にすることが小さいけれども重要なことだと考える。
そして、選挙を通じたり、SNSなどを通じて自分の意見を表明していくことで変えていくしかないだろう。
そもそもこうやって労働者自身が必要以上に責任感を持つ意味がどこにあるのだろうかと疑問に思って欲しい。
労働者は時間を切り売りすることでお金を稼いでいる。
株主は資本を使って事業を行うことでお金を稼いでいる。
つまり労働者は自分の時間が商品なのだから、安売りしてはいけない。
自分の時間を安売りしてそれで守ることができるのは会社の看板でしかない。
労働者の生活は、精神の自由は、身体の自由は株主利益の前に犠牲になってしまう。
おかしな話だ。
本来約束した時間あなたを使用するから、あなたの時間を奪う見返りに賃金を渡します。
でも得た利益は私のものにしますね。これが資本家の論理である。
なら、約束した時間以上の業務を求めるのであればそれ相応の金銭的な報いを与えるのが道理だ。
それがしたくないのであれば、資本家自らが会社の看板を守るために現場に出向くべきだろう。
それが嫌なら役員報酬は何のためにあるというのだ。
労働者が考えるべきはあくまで自分の利益。
会社に平身低頭仕えたところで将来豊かになることを約束してくれるような甘い社会ではないのだ。
頑張っても庶民には増税、高負担。金持ちほど社会的な名声を得ており、教育の機会も得られる。金融所得への課税は累進性がなく金持ちほど優遇されている。
そんな不平等な現代社会で、努力してもなお報われない可能性が高いのだから、庶民が守るべき資産はただ一つ。
時間である。
確かに今は健康格差とも言われ、所得水準によって寿命や精神及び身体的な健康も左右される部分があろう。
だが、資産が2倍、3倍、何万倍と差をつけられたところで寿命の差は高が知れている。
唯一、庶民であっても金持ちと同じように生まれながらに持っている自分の時間を守るべきなのだ。
それを、目先の社会的な圧力や端た金で易々と差し出してしまうのは
自ら搾取されにいくようなことだ
社会になんとなく広まっている「常識」の多くは、金持ち側がより金を儲けるために我々に刷り込もうとするものなので、気をつけておかないと自分の時間、人生そのものを進んで搾取者に差し出してしまうのだ。
情報を流すにもお金がいる。私の目の前にある情報は誰がどんな意図で流しているのだろうか。
自分の人生を、何より大切に生きていこう。
皆、宗教に染まっていると言えるのではないか。
私はサラリーマンとして働いているので、上司と世間話をすることがよくある。
基本的には話を合わせることができ、迷いなく相槌も打てるのだがたまに同意しかねる時があり心の中でモヤモヤしたりする。
最近ではこんな言葉があった。
「宗教にハマる人間って理解ができない。神を信じるなんてあり得ない。」と。
キリスト教やイスラム教も含め、多くの宗教では目に見えず、信仰の世界にしか存在しない(かもしれない)ものを大真面目に議論し日々の生活に溶け込ませている。
私も一時期、宗教などを信じることを否定はしないまでも、あまり積極的に意味を見出せなかった。
私自身は何か信仰していることはないと思っていた。
しかし、社会人となり色々な人と話し、色々な本を読み経験を積むと考えが変わってきた。
私も含め多くの人間はいかに多くの信仰を持って生きているのだろうかと思うようになったのだ。
例えば、日本では勤労の美徳というものが信じられている。
懸命に働けば報われて、豊かに暮らすことができると多くの人が信じているはずだ。
だが、考えてみたらそれに何の根拠もないのではなかろうか。
今、国民の税などの負担の重さ、いわゆる国民負担率は48%にまでなっている。
普通に労働をして得られる所得は、どんどん取り上げられていってしまうのだ。
だから、労働者として豊かになるというのは非常に難しいことだと言わざるを得ない。
反対に、もともと資産を持っていた人間はどうだろうか。
金融所得には20%程度しか税金はかからないため、資産家の家を継げば何もしなくても圧倒的に優位に稼いでいくことができる。
また、親の会社を継ぐなど人的資本を受け継ぐことも非常に大きな差となる。
所得税の累進性は下げられてきたので、所得が多くても一昔前ほどには税金を取られず資産が積み上がっていくのだ。
資産を持った人間であれば教育にもお金を使えるため、スタートラインが違う。
懸命に働いたからといって、豊かになれるというのは何の根拠もない妄想と同じだと言える。
他には、社会的属性ごとに標準とされる生活スタイルも信仰と同じではないだろうか。
社会人になったら実家を出ていなければおかしい。とか。
ローンで家を買って子供を持って、やっと一人前。とか。
何となくみんな信じているが、何の根拠もないものなんて非常に多いと思う。
こう考えてみると、宗教を信じることが特別不合理で理解し難いようには私は思えないのである。
さらに言えば、人間が何かを信じることにはメリットがあると思っている。
一つ目には、心の支えになることだ。
目の前の現実は辛いことが多い。
自分の選択に自信を持つことも難しい。生きる意味すら見出せず苦しくなることもあるだろう。
そんな時に、そうした自分の境遇や自分のなすべきことを示してくれたり、人生に対して意味を与えてくれるような信仰を持っていたら精神衛生上とても良いと思う。
二つ目には、社会の秩序を保てることだ。
多くの国民が共通の「常識」を信じることで、行動が一定の範囲に収まる。
何のルールもない、どこで何が起こるかわからないようでは秩序など期待できない。
根拠はなくても行動に一定の枠をはめることができる点で、信仰というものは大きな役割を果たすだろう。
3つ目には迷いをなくすことができることだ。
日々生活していると、一つの事柄に対しても人によりいく通りもの対処の仕方、判断の仕方があることを知るだろう。
書店に行っても、同じ事象に対して書かれたものでも正反対の結論に至るものなんていくらでもある。
何かを選ぶにあたっては、それが後の人生で大きな影響を及ぼすものであればあるほど正解が見つからないことであることが多い。
そんな時、自分が何か信じる判断の基準があればどうだろうか。
選びうる選択肢のうち、少なくともいくつかはその基準を使い切り捨てることはできるはずである。
この時、信仰は選択肢を篩にかけてくれている。
選択を助け、そして信念に沿う選択をした自分を肯定してくれるのである。
以上のように考えると、私は宗教を信じている人が理解できないとはとても思えない。
むしろ宗教かどうかに関わらず、自分の中で頼れる信仰というものを持ちたいとさえ思う。
労働なんて茶番に過ぎない。
日本人はなぜ労働を神聖視してしまうのだろうか。
皆さんは違和感を感じたことはないだろうか。
社会人なら働いて当たり前。
朝はきっかり定時に出勤し、夜は定時を過ぎてでも業務をこなしてから帰宅するのが当たり前。
仲良くもない取引先との楽しくもない飲み会を率先して企画して当たり前。
休日も業務のために勉強して当たり前。
挙げ出すとキリがないが、労働者としてすべきことが多すぎるのである。
楽しくもないことのはずなのに、皆が自分を犠牲にしている。
でも、これが正しい姿だろうか。
一労働者が自分を犠牲にして働いたところで会社の業績が多少上がって、経営者の資産は増えるだろう。だがその労働者の賃金は対して増えやしない。
経営者は増えた利潤でさらに新規事業を起こしたり資産運用をしたりして、労働者とは比べ物にならない速度で資産を増やしていく。
方や労働者の方はどうだろうか。自分の心身の健康を犠牲にして少しばかりの恩給をもらったところでまた同じように次の年も心身を捧げていく。
体を壊せばなけなしの貯金を取り崩して細々と食い繋いでいくことになる。
会社は法で定められた程度の見舞金を出して終わりである。
このように、経営者と労働者は全く立場が違うのだ。
ここで、皆さんに思い出して欲しいことがある。
現代は資本主義の時代であるということである。
資本を持っている人間がより資本を増やすことができる。そんな世界である。
経営者が持っているのは、もちろんお金である。
彼らはそれを資本として使い運用している。
では労働者はどうだろうか。
自分の体である。
たった一つしかない自分の体が資本なのである。
であれば、その体を労働によって壊してしまうというのが非常に愚かしいことだと
わかるのではないだろうか。
我々労働者は、いかに労働を少なくし自分の体という資本を長持ちさせるかが勝負なのだ。
無理をして一瞬給料が増えても、長続きはできない。
それよりは、細く長く(経営者を)騙し騙し働いてほどほどに給料をもらうべきだ。
特に今のように、会社が豊かな生活を約束してくれない時代はそうだ。
だからこそ、労働というものを重く考えず、茶番に付き合ってやるかという心を持つことが望ましい。
生まれながらに恵まれた人間はいる。そんな人間と資産では何倍も差がついていたとしても
寿命はそこまでの差はない。体は平等なのだ。
唯一、平等に持っている自分の体を大切にしていきたい。